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    文档作者:佐藤渉
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    2009年1月提出
    东北学院大学教养学部地域构想学科 2008年度総合研究
    「公共の秩序」と「伝统文化」の
    対立と再统合
    ―岩手県奥州市黒石寺苏民祭の事例から―
    教养学部 地域构想学科 4年生
    0558230 佐藤 渉
    指导教授 金菱 清
    要旨
    2007年の冬,突如私の地元である岩手県奥州市水沢区にある黒石寺の苏民祭が全国ネットのテレビや全国纸の新闻や雑志を騒がせた.この祭りは东奥の奇祭と知られ,男性的壮観の絵巻物であり,1200年以上の歴史がある贵重な民俗的遗产である.騒动のきっかけは,苏民祭のPRのためのポスターがJR东日本に不快だとして掲载を拒否されたことである.ポスターは下帯姿の男性や上半身裸で胸毛の男性がアップに写ったものであった.报道は全国にまで広がり,ポスターだけでなく祭り自体をセクハラと见る向きもあった.
    この祭りは旧暦に合わせて行われているため平日の日もある上に,午后10时から午前7时顷まで行われるため地元であっても私自身は今まで一度も行ったことがなかった.また小さい顷から学校や街なかのポスターなどで见惯れていたのでこの报道は冲撃的であり,なぜあの祭りがセクハラなのか,この疑问が本论文执笔のきっかけとなった.
    そもそも裸になるからといって何百年も続けられてきた伝统文化が,女性の过激な水着のポスターや路上で裸になる痴汉行为といったものといっしょにされてしまったのはなぜなのか.伝统文化=「古き良き日本,そして歴史の奥深さを现代に伝える绝対的な価値を持つもの」という良いイメージは间违いなのか.そこで私は,古代から続く伝统ある祭りとセクシュアルハラスメント,つまりは「伝统文化」と「公共の秩序」の対立がなぜ起きたのか,これを本论文の问いとし调査を进めた.
    调査の结果,现地の人々と私との间に今回のポスター事件に対する认识に违いがあることが分かった.现地の人々は谁一人としてセクハラではないと确信し特に気にも留めていないようだった.対立の直接の原因はメディアによる过激な报道が原因だったからだ.
    ただ,私は対立の原因はマスコミによる误报だけではないのではないかと考え,现代日本人の生活の変化とそれによる社会全体の信仰心の希薄化という仮说を立てた.
    第1章では苏民祭という祭りを支える苏民信仰や苏民祭の详细について说明している.第2章では直接の原因となったポスター騒动の真相と伝统文化はセクハラなのか,という点について闻き取りや他の事例との比较から考察している.また,次章に続く形で苏民祭の意义や変迁から伝统文化と公共の秩序の対立が现代だけの问题かという点にもふれている.第3章では,改めて伝统文化と公共の秩序を定义しなおし,両者の対立の理由と再统合について,より深いところで议论している.また,结语では今回の騒动の直接の原因となったメディアの在り方やそれを通して祭りの存在を知る私たちの在り方について参考论文をもとに考察している.
    本论文は,実际に祭りの准备から本番まで体験することで,现场の人々の苦労や工夫,祭りへの想いを伝えることができたと思う.そして,このようにミクロな视点を持つことで,同じように伝统文化の存続の危机にある人々や,その周りの人々が伝统文化というものを考え直す机会となることを期待するものである.目次
    はじめに
    第1章 苏民祭について
    1.苏民信仰
    2.黒石寺苏民祭准备
    3.黒石寺苏民祭
    第2章 苏民祭の変迁と事件
    1.ポスター事件
    2.セクハラ騒动Vs伝统文化
    3.黒石寺苏民祭の変迁
    第3章 公共の秩序と伝统文化の対立の捉え方
    1.公共の秩序の在り方
    2.伝统文化の在り方
    3.现场での新たな公共秩序の模索と构筑
    第4章 结语
    おわりに
    参考文献
    はじめに
    2007年の冬,突如私の地元である岩手県奥州市水沢区にある黒石寺の苏民祭が全国ネットのテレビや全国纸の新闻や雑志を騒がせた.この祭りは东奥の奇祭と知られ,男性的壮観の絵巻物であり,1200年以上の歴史がある贵重な民俗的遗产である.騒动のきっかけは,苏民祭のPRのためのポスターがJR东日本に不快だとして掲载を拒否されたことである.ポスターは下帯姿の男性や上半身裸で胸毛の男性がアップに写ったものであった.报道は全国にまで広がり,ポスターだけでなく祭り自体をセクハラと见る向きもあった.
    この祭りは旧暦に合わせて行われているため平日の日もある上に,午后10时から午前7时顷まで行われるため地元であっても私自身は今まで一度も行ったことがなかった.しかし小さい顷から学校や街なかのポスターなどで见惯れていたのでこの报道は冲撃的であった.地元出身の人ならば私と同じ疑问を持った人も少なくないと思う.また,裸になる祭りは黒石寺の苏民祭だけではない.祖母の実家の一関市にも大原水かけ祭りというものがあって幼いころに参加したこともある.祭りで裸を见ることはなれているし,幼いながらそこに神圣さも感じていた.なぜあの祭りがセクハラなのか,この疑问が本论文执笔のきっかけとなった.
    そもそも裸になるからといって何百年も続けられてきた伝统文化が,女性の过激な水着のポスターや路上で裸になる痴汉行为といったものといっしょにされてしまったのはなぜなのか.私は伝统文化=「古き良き日本や歴史の奥深さを现代に伝える绝対的な価値を持つもの」という良いイメージを持っていただけに,今回の騒动はその考えを覆すものとなった.そこで私は,古代から続く伝统ある祭りとセクシュアルハラスメント,つまりは「伝统文化」と「公共の秩序」の対立がなぜ起きたのか,これを本论文の问いとし调査を进めた.
    调査の结果,现地の人々と私との间に今回のポスター事件に対する认识に违いがあることが分かった.现地の人々は谁一人としてセクハラではないと确信し特に気にも留めていないようだった.対立の直接の原因はメディアによる过激な报道が原因だったからだ.
    ただ,私は対立の原因がマスコミによる误报だけではないと考え,现代日本人の生活の変化とそれによる社会全体の祭りに対する信仰心の希薄化という仮说を立てた.本论文では対立の原因を,メディアの报道姿势を明らかにし,またセクシュアルハラスメントの概念,そして苏民祭という伝统文化が持つ特质という视点から考察していく.
    また,黒石寺苏民祭を支える人々は「伝统文化」と「公共の秩序」の対立のなかでも祭りを存続してきた.これは现场で妥协策がとられバランスが保たれている,つまり「伝统文化」と「公共の秩序」の関系が再统合しているからと考えられる.そのため本论文では出来るだけ闻き取り调査から得た现场の人々の苦労や工夫を织り交ぜていきたい.今回の事例では同じように伝统文化の存続の危机にある人々や,その周りの人々が伝统文化というものを考え直す机会となることを期待する.
    まずは,黒石寺苏民祭という祭りについて,文献と2009年の调査をもとに以下で绍介していこう.
    第1章 苏民祭について
    1.苏民信仰
    苏民祭のきっかけとなる苏民信仰は全国各地に伝わっており,『备后风土记』※1の中に苏民信仰の逸文が残されているという.その内容は以下の通りだ.
    兄の苏民将来と弟の巨旦(こたん)将来の话である.ある旅人が一夜の宿を借りようと访ねてきた.しかし裕福な巨旦将来はそれを断わり,贫乏な苏民将来は快く受け入れた.旅人はお礼として苏民将来に茅ノ轮を腰につけるように命じ,それ以外のすべてを灭ぼした.茅ノ轮をつけていた将来とその子孙は灾いを免れた.それ以来,苏民将来の子孙という证である茅ノ轮をしていれば灾いを免れるという.

    この旅人は武塔神(たけあきのかみ)とも须佐之男命とも牛头天とも薬师如来ともいわれている.黒石寺の苏民祭では,この故事をもとに苏民袋の中の苏民将来という疫病除けの护符の取り合いが行われている.この说话はもともと中国のもので早くから日本に伝わったものであるともいわれている(岩崎 1989).
    苏民信仰は全国に分布しているが特に岩手県の场合,记录保存のために国指定无形民俗文化财となっている.『黒石寺苏民祭と岩手の苏民信仰』によれば,岩手県下で苏民祭を行っているところは17か所あり,そのうちの7か所は廃绝し,现在は10か所で行っているという.
    2.黒石寺苏民祭准备
    本番の祭りの激しさは有名にはなったが,祭りの准备も古代から続く歴史ある祭りの一部であり,门前檀徒たちの确かな信仰によって粛々と进められるという.祭りの准备は,12月13日から正月6日(注:日付はすべて旧暦)まで行われる.なかには危険な山仕事や1周间の厳しい精进もあり,他の祭りとは异质なものであることがわかる.また,仪式的な部分は门前檀徒の人々が行うが,祭りをスムーズに进めるために檀家以外の外部団体が休憩所の设置や観光案内などの准备を行っている.以下で檀家の人々と外部団体に分けて详しく说明していく.
    檀家の人々による准备
    お立木
    檀家の人々が山から柴木を拾ってきてそれを束ねて直径2メートルくらいの円形をつくり,その上に北东の方向を向けて竹の弓矢を立てる.お立木は祭场の表示や「依代」(よりしろ)や「门松」などとする说もあり,水沢観光协会発行の「黒石寺苏民祭」によれば,檀家の人々の寺への奉仕と祭りへの待望の汗もまた束ねられているとある.
    薬汤
    旧正月の1日から8日まで釜场の釜にお汤をわかし,祭り当日参诣客はそれを吹かずに饮む.吹いてしまうと御利益も飞んでしまう.水筒やペットボトルに薬汤を入れて持って帰る人もいる.
    まんだら曼荼罗まい米
    7日,檀家の人々が集まって, せちお节づ捣きといって1年分食べる米をつく.そのなかで,みずごり水垢离をとって一番臼からとったものをマンダラ米と称し,薬师様に上げるという.
    元旦の朝,门前の代表が水垢离をとって,身を清め曼荼罗米を捣く.曼荼罗米の一升の内半分は饼にして,堂守と呼ばれる人の手で,12神将に供える十二支の形に作られるという.一般人が见学することはできない.
    当日は写真右の别当が曼荼罗米をまく
    苏民袋つくり
    苏民袋つくりを手伝う人は门前10轩の女たち7,8人で,3日前から精进し,当日も薬汤に入って,塩で身を清め,麻をもみ,つなぎ,より,巾约35センチ长さ约180センチの布を织って,袋にするが,1日で仕上げることになっているという.これも一般人が见学することはできない.
    柴灯木
    岩崎(1989)によれば6日,山から生の赤松の木を伐り出し,长さ1.5メートルほどの丸太にしてそれを2つ割にする.これは修験の柴灯护摩の柴灯であるという.本番まで切られた木は境内の一角に置かれている.
    苏民将来の小间木
    カツの木(将军木,ヌルデ)の1年目の若枝を径约2センチ,长さ约3,5センチの六角柱にけずり,一角ごとに苏民 将来 子孙 门戸 ☆(ナリと読む) 黒石寺(注:岩崎(1989)にのみ记载されていた)と书く.5升山盛り一杯分を苏民袋に诘め,これはあとで袋に入れられ三宝にのせて仏前に供えるという.
    手木
    カツの木で,维那役や总代が持つたちぎり打人用(约75センチ)のものを2本,各登りで进路を开く祓人たちが持つはらいびと祓人用(约45センチ)のものを400本つくるという.
    松明つくり
    松松明3把とよし松明2束をつくるという.
    お煤扫き
    12月23日,门前の人々の行う煤扫きで,本堂や库裏などを扫除し,夜食を顶き功录銭をいただいて,年末のお礼を述べて帰る.煤扫きは神仏を招きその座しつらえるためのものでもっとも清浄を旨とする.
    御年始
    元日より7日まで,别当は本堂で読経,终わって朝食.元日门前一同は年始に参上,终わって相谈があり,诸准备にかかるという(岩崎 1989).
    お精进
    年末の1日と明けてから祭りの终わるまで,门前では厳しい精进を守らなければならないという.この期间中は肉や鱼,茶,卵,乳制品,ニラやにんにく,ねぎといった香りの强い野菜(生姜は可)を断つ.门前以外からの火をもらうことができないため,外食や他の家で食事をすることもできない.実家が檀家で现在は宫城県で生活している伊藤さんの话では,祭り当日は大丈夫だが精进期间中は外から来た人は精进している檀家の家には入れない,伊藤さんでさえ入ることはできないのだという.
    鬼子は数え年7歳の男子で门前から出るのが原则であるが,他から希望のある时は,门前に来て精进しなければならないという.学校がある场合は1周间给食を食べずに家から弁当を持っていかなければならないという.
    これほどの祭りなのに,怪我人も病人も出さないのは,厳しい精进のおかげだと言われている(岩崎 1989).とくに出产のけがれを嫌い,子供が生まれそうな时は,嫁は実家なり亲戚なりにあずけられ,街の店で物を买うような场合にも,最近出产のあった家からは买わないという.また,死のけがれも忌み,精进期间中死者の出た场合,家族や亲类は祭りに参加できず,近所に住む门前の人々も,精进明けの9日まではお悔やみにゆくことができず,丧家では葬式を出すこともできないという.
    檀家以外の外部団体による准备
    祭り自体は,代々门前の家が継ぐかたちで行われている.ただ,现在は时代の変化から檀家だけでは存続が厳しくなっているため,信仰を持つ人や祭りの魅力と価値の重要性を知り后世に残そうとする人々によって支えられている.昭和47年に発足した苏民祭保存协力会も,もとは数人の有志が集まってできたという.その保存协力会の青年部を中心にして2周间前の日曜日に休憩所の小屋挂け作业がはじまる(祭りは一夜を彻して行われるので,人々は小屋内部のあちこちに炭火を囲んで暖を取り,酒を饮んで次の祭りを待つ).当日は青年部が屋台を出すのでその准备や,藁を束ねて椅子つくりをするようだ.他にも,瑠璃壶川に向かう途中の除雪や水垢离をするために土嚢を组んで川をせき止め,炭や食事や藁の手配を毎年决められた予算のなかで行っている.准备の様子はとても活気があり,毎年楽しみながら准备をしているようである.
    また,事前に役割分担が行われる.黒石寺苏民祭协賛会や振兴会が祭行事内容の案内を,市商工観光课や(社)水沢観光协会,水沢商工会议所が観光案内および土产品贩売,ポスターチラシによる宣伝を行っている.また,水沢警察署や奥州市水沢消防団,奥州金ヶ崎行政事务组合消防本部が警备や交通対策を行っている.さらに,「JAいわてふるさと」が争夺戦の副赏の提供をし,足袋下帯の仕入れ贩売に黒石梅の里生产组合といった组织も参加している.このことから黒石寺の苏民祭が単にお寺だけの祭りではなく,市や地区全体の协力のもと行われていることがわかる.

    写真左:おこもり小屋の准备の様子.写真右:当日に小屋で暖を取り休憩している人々.
    3.黒石寺苏民祭当日

    毎年旧正月7日から夜半から8日早暁にかけて,厳寒积雪の中で行われる裸祭りで灾厄消除,五谷豊穣を祈愿する.祭りは次の5つの行事から成る.
    A.裸参り(夏参り,祈愿祭ともいう 午后10时~)
    钟の合図で,厄年连中や一般祈愿の善男善女が,それぞれろうそくをともした角灯や割竹にはさんだおはんねり浄饭米(オヒネリの洗米のこと)を持ち,るり瑠璃つぼ壶川(山内川)に入り,水垢离をして身を清める.その后「ジャッソー,ジョヤサ」「ジョヤサ,ジョヤサ」の挂け声で,薬师堂から妙见堂を3巡して,厄灾消除 无病息灾 家内安全 五谷豊穣を祈愿する.これは本来个人的なものであり,本人や家族のための祈愿が本文であるようだ.各资料によると,ジョヤサとは,除夜祭 浄夜祭 常屋作 除夜叉という意味があるという.
    また,女性が参加できるのはこの最初の祭りだけであり,下着姿で参加する(岩崎 1989).男性は下帯姿で参加するが,外れて全裸になることも少なくない.戦时中には夫や息子の武运を祈って,白い肌着の母たちの姿もあったと记录されている.また,昭和49年以前の开始时刻は午后8时であったらしい(水沢観光协会「黒石寺苏民祭」).

    瑠璃壶川に向かう人々.カメラの构えるポイントで顺番に水垢离をとる.
    B.ひ柴た灯き木登り(午后11时半~)
    库裏から本堂に行列を组んで进むことを登りいう.その先头には「たちきり」と呼ばれる二人の男で,登りを囲む祓い人より长い手木を持ち,挂け声をかけながら互いに刀を振り下ろしそれを受け止めるような动作(切り结ぶ)をする.その后をほらがい法螺贝や太鼓,焚きつけの胡麻がら 豆がら 柴木を持った人たちが続く.祓い人は地面を払いながら进む.
    行列が本堂前に达すると赤い手拭や黄色い手拭を头に巻いた人たちがさい柴とう灯ぎ木を崩れないように井桁积にして火を点ける(赤い手拭は黒石寺の苏民祭の人で,黄色い手拭は世话人众という黒石寺だけでなく県内の苏民祭全体の保存会の人だという.そのため黒石寺であっても世话人众としてよそも手伝う场合は黄色だという).
    火がついたら,裸の若者たちが次々に柴灯木に上り,「ジャッソウジャッソウ」と叫んだり,また山内节を歌い気势をあげる.火は烟とともに燃え上がり,炎と烟の中に入った何人かの若者の姿が见えかくれし,烟にむせて暑くて我慢できなくなると次の若者と交替する形でいつも数人が火の中に立つ.これは火で厄灾とけがれをはらう仕草であるという(岩崎 1989).
    しばらくして若者たちの数人は,火のついている柴木を引っ张り出して,「おおー」と声を张り上げ,柴木を振り回しながら本堂外阵へ駈け入り,床にこの燃え木を力まかせに叩きつける.これも祓いの行事であるという(岩崎 1989).亲方が本堂前で仁王立ちになり,気合いの入っていない若者を追い返す场面も见られ,时には檀家の人さえ追い返していた.
    山积みの燃えさかる柴灯の火も,大众によって行われる一切のけがれを払い灾厄を除く护摩火で,修験道の柴灯と同じ火であり,素朴で力强い太古の感じを思わせるという(岩崎 1989).また,同资料によると火たき登りの前,本堂で拝んでいる和尚に,参拝の群れから悪态をつく风が昔はあったというが,これも悪态祭りなどと言われる古い风习の名残であったらしい.実际に祭りの最中に観客や执行している人々の间でヤジのようなものが飞び交うことがあった.

    写真左:祓う様子.この方は世话人众であるという.写真右:火たき登りの様子.
    C.别当登り(午前2时~)
    まず别当は风吕で汤垢离をして身を清める(岩崎 1989).半钟の合図で寺务所に集り,手木が祓人に配られる.登りには先ほどと同様にたちぎりが先导し,法螺贝 太鼓が続く.别当住职藤波洋香氏は両端を亲方に守られ,その后ろを苏民袋が守护役 祓人に守られて本堂に向かう.そして本堂内阵で别当が厄灾消除 五谷豊穣の护摩を焚く.
    本堂に向かう登り.写真中央の女性が住职の藤波洋香氏.両脇を守るのが黒石寺の檀家の方(赤い手拭)と世话人兼黒石寺苏民祭保存协力会の顾问を务める菊池一志さん(黄色い手拭).
    D.鬼子登り(午前4时~)
    鬼子とは原则として数え年7歳の男児2人であるというが,檀家の家で精进をしていれば大丈夫とのことで,鬼子になれば丈夫に育つと言われているようだ.鬼子は麻衣を身にまとい,木斧と才槌を持って鬼面を逆さに背负い,大人(亲方または父亲)に背负われて,松松明やあし松明と共に行列を组んで本堂に入る.古い文书には鬼面は赤と青の彩色があったとか,面の数も12あったとされるが定かではないという(岩崎 1989).行列は别当登りの时と同じで,祓人が腰をかがめて,「ユーユー」の挂け声で,左右の土の上を手木でなでて祓うという.
    外阵には次の苏民袋争夺戦に出る人々らが集まり,そのなかの10余人ほどの裸体は,内阵外阵の境にある格子戸に升り気势をあげている.「早く袋を出せ」と叫び格子を蹴り悪态をつく者もいる.世话人と男たちが「ジャッソー,ジャッソー」と挂け合いをするが,登っている人が大人しいと世话人が喝をいれることもある.このとき记者は内阵に向かって両端の屋根のようなところに构えている.
    鬼子が本堂に入った后,本堂向かって右手の出入り口より本堂外阵に护摩台が出され,世话人がそれを守る.ついで别当がその上で曼荼罗米と十二支の形に作った饼をまく.これには邪気を払う呪力があるようで集まった人はこれを拾う.ついで本堂内から燃えさかる松松明が2把持ち出され,护摩台の上で合わされるという.そして鬼子を背负った大人がその周りを3回まわりながら火の上を飞び越し本堂に戻る(水沢観光协会「黒石寺苏民祭」).この间に护摩饼が焼かれ,水挂け役が火を消す.松明の燃えさしは火伏せの护符になるといい,护摩饼は行事に携わった人全员で8日の朝分配して,精进明けの9日にいただくという(末武 1976).
    鬼子とは何かについては,修験道で役行者の従えている前鬼后鬼か,山の精霊か,神のよりまし凭人か,ノリワラ(神宣を伝える稚子)かなど诸说があるようだ.

    写真左:鬼子を背负った大人が火の回りを飞び越えている様子.写真右:格子戸に升り気势をあげる人々.
    E.苏民袋争夺戦(午前5时~)
    鬼子が本堂に戻ると同时に5,6人の男たちによって苏民袋が外阵に出され争夺戦が始まる.开始后まもなくすると,内外阵の境の格子中央辺りに素裸の亲方が小刀をくわえてのぼり,苏民袋が格子下に来たところを见はからって亲方はとび下りる.亲方は小刀を手に持って高々と上げたのち,苏民袋が裂かれて中の小间木(护符)が飞び散るという.小间木を持っていると厄灾を免れると言われているため,一般の参加者も杀到するという.苏民袋争夺の裸の男たちの中には口に小间木を頬张りながら争夺する人もいる.裸の男たちは空の袋を巡って2时间余り激しい争夺戦が行われる.争夺戦は境内の中では収まらず,本堂から石段を降り,国道343号线まで続き,およそ600メートル离れた田んぼになだれでる.时には田んぼの中で泥だらけになりながら続けられることもあるようだ.亲方众(世话人众)が揉み合う男众を先导し,最后まで袋の首の部分を持っていたものを取主と判定を下して祭りが终わるという.取主,准取主には景品が渡され,苏民袋はほぐして糸のようになったものを争夺戦に参加し「かませふだ」を持った人に分配される.これも小间木と同様に厄除けの护符となるようだ.
    また苏民袋争夺戦は厄除けだけではなく,豊作の占いの要素もあるという.境内を出た集団が东に向かうか,西に向かうかによってその年どちらの土地が豊作になるかが决まるという.东は东磐井郡,西が花巻胆沢方面であるようだ.

    写真左:午前6时前,袋を揉み合う男众が国道に出た様子.片车线だけの通行止めのため警察や警备の方が厳しく指导する.ホースで集団がはみ出ないように押さえているのがわかる.
    写真右:午前6时半顷,およそ600メートル离れた田んぼになだれ落ちている様子.
    写真下:著者が争夺戦の际に手に入れた小间木(左のものには苏民将来と书いているのがわかる)と,苏民袋の麻ひも(纽は最后まで争夺戦に参加した人がかませ札と交换でもらえるが,著者は世话人の方にいただいた).どちらも厄灾よけの护符となる.
    第2章 苏民祭の変迁と事件
    1.ポスター事件
    第1章では苏民祭という祭りについて绍介してきた.本章ではまず今回の騒动の问题となったポスターの掲载拒否から当日までの流れを见ていこう.騒动があった2008年の翌年に调査に赴いたわけだが,その结果,现地の人々と私との间に,今回のポスター事件に対する认识に违いがあることが分かった.セクハラとなった原因はマスコミの过激な报道であり,事実を脚色されたものであった.以下で事件の真相をみていく.
    マスコミの报道
    JR东日本がポスターを「セクハラ」として掲载を拒否(毎日新闻)
    警察は裸になった人は「公然わいせつ」で逮捕すると话した.苏民袋争夺戦の时に亲方が全裸になるが,これに対し警察は初めて「公然わいせつにあたり警察として措置する」と语った.(毎日新闻)
    以上の二つの记事を见れば祭り自体がセクハラとされているように感じてしまう.なかには祭りの存続が危ぶまれるような记事もみうけられた.しかし,実际はマスコミが过激に报道しただけであり,JRの広报担当の方の话では,「决して祭りを否定したわけではなく,今年はたまたまポスターがちょっと过激だった.我々もサラリーマンなので公共の场にふさわしくなければ掲载することはできない.」と语っている.マスコミの质问の仕方が「○○ならセクハラになりますよね 」という诱导寻问のようなものだったという.また,警察も同様に立场上マスコミにはそう答えたが,例年通りの姿势を通すつもりだったようだ.本番では警察の人たちが钟楼のある建物のなかで待机しており,何も问题がなければ干渉するつもりはなかったと青年部の方は话す.藤波洋香住职は「胜手に来て胜手に騒いでいっただけ」本当に迷惑だったと话した.
    当初,推进したポスターが拒否されたことについては例年行われる総会 打ち合わせ会の席で「今回は见送り」という形で纳得,その时に来ていた地元の胆江新闻も事実関系を纸面で报告しただけだった(商工観光课の方).しかし1月8日に毎日新闻に取り上げられ,その后Yahooに记事提供したことによって一斉に広がったという.8日の段阶はニュースだけだったが,9日以降にバラエティー番组へと切り替わっていったために过热に报道されるようになり,前日までの沢山の応援のメッセージから一転,苦情が来るようになったという.ただ,毎年取材している地元の新闻やNHKなどでは一度も騒がれることはなかったようだ.1月8日~17日までの対応状况は,电话 手纸 メールが全部で344件以上にも及ぶという.
    突然の报道であったが,运営侧は早急な対策が求められたようだ.1月下旬~2月13日までの取材の対応については,1月29日に対策打ち合わせ会が开かれ,当日対応担当 祭り案内 公民馆の人たちが広报担当课 市政记者クラブの代表に意见を求めたという.また,マスコミの申し込み状况を确认するため,市商工観光课では事前に注意事项が书かれた资料を配り,取材の目的内容を书く企画书を提出させ,登录させた.记者の数は合计172人で騒动の発端申込は109人にも及んだ.TBSだけでも4番组.テレビ局の中で情报の共有はしないため,TBSだけでも4番组でそれぞれのリポーターがきていたという.内訳は16社のテレビ局,新闻社全国3つ,周刊志5つ,漫画 ラジオが1社ずつ,NHK テレビ岩手では騒动前からの特集番组の申込,市の情报を记事にする记者クラブ,の全部で47机関であり,それぞれの记者全员に色分けされた许可证をつけさせたという.
    私が参加した翌年の苏民祭は,キー局7社から34人,合计68人の取材阵の数だったが,それでも当日の记者とカメラのフラッシュの数には惊いた.その2倍以上の报道阵が押し寄せた前年はどれほどのものだったのか想像を绝する.
    また,ポスターの始まりは,1971年の祭りで起きた暴力団员らの暴行事件をきっかけに,イメージ回复を図ろうと作制されたのだという.当时市の担当者で,黒石寺苏民祭协賛会事务局长の后藤博志さん(66)は「悪いイメージを一扫しようと必死だった」と振り返る.旧国鉄のキャンペーンに参加し,全国の駅构内に掲示した(河北新报 2008年4月7日).
    ポスターは「静」と「动」のイメージで,一年ごとに変わるのだという.问题となった年の前の「动」のポスターを见ても,2008年のものとさして変わらない印象を受ける.偶然が重なって招いた事件であったと言えるだろう.


    上段左:掲载拒否となったポスター.上段右:2009年用のポスター.「静」をイメージしているという.(产経ニュースからの引用)下段:左が2006年,右が2004年の「动」をイメージしたポスター(JR水沢江刺駅で行われたポスター展より).
    2.セクハラ騒动Vs伝统文化
    今までみてきたようにJRに掲载を拒否されたポスターがきっかけとなり,さらにマスコミの过激な报道によって祭りがセクハラ扱いになったということがわかった.当日は祭りの雰囲気は壊れたものの,マナー彻底を呼び挂け,谁一人逮捕者を出すこともなく无事に祭りを终えたという.
    では,そもそも祭りという神圣なものをセクハラと捉える考え方はどうなのだろうか.セクシュアルハラスメントの定义,そして実际に祭りのなかでセクハラとなった秋田県男鹿市の「なまはげ」の例と比较して考察していく.
    私の考えとしては,裸になることは祭りの一部であり,周りを不愉快にさせるから服を着れば良いというものではないように思う.ただ単に裸=セクハラという考えは良くないし,祭りの本质を理解していないといえるだろう.また冬の祭りには行(修行)の意味もあるため,极寒のなか敢えて裸になるし,神仏に临む时に身を清める意味で服を脱ぐ.祭りを日常と同じ価値観で捉えることは难しいように思う.
    また,末武保政氏の「苏民祭覚书」の资料に面白い内容が记载してあったので绍介する.江戸时代の菅江真澄という学者が书いた游覧记で水沢を访れ苏民祭の苏民袋争夺戦を见たときのこと.むかし袋のもみあいの最中に褌の前垂が袋の端にからみ,それを力任せに捻じり合いひきあううちに阴嚢が破れて死んだ人がでたので,それから褌というものを一切まとわなくなったというのだ.
    セクシュアルハラスメントという概念について详しい水谷(2001)の论文を参考にしてみよう.「セクシュアルハラスメント」という言叶は歴史的には1970年代のアメリカにおいて公民権运动とともに力をつけてきたフェミニズム运动の中で生まれた造语であり,日本でも1989年にある女性雑志が「セクシュアルハラスメント」に関する特集を组んだことでまたたくまに社会に広がるようになったという.定义は一般に「相手方の意に反する不快な性的言动」と理解されていて,法律用语上では快适な労働环境を整えるための「均等法」「人事院规则」という法律のなかで登场しているようだ.また,これら法律上の定义に该当する行为が认定されるだけでなく,法的にみても违法不当なものとみなされてはじめて,民事,场合によっては刑事の法的责任が问题とされることとなる.刑事责任が问题视される场合は,接触が伴う「强奸罪」や「强制わいせつ罪」,「名誉毁损罪」,のぞきやストーカー等の「軽犯罪法」が问题となるという.
    では実际に祭りのなかでありながら刑事责任を问われた(诉讼にはなっていない),秋田県男鹿市の「なまはげ」の例をみてみよう.
    2007年12月31日男鹿市の旅馆で男性5人が扮した「なまはげ」のうち,20代の男1人が抜け出して大浴场に入り,女性客数人の体を触った.これは「强制わいせつ罪」といえるが,女性客の了解もあり罪には问われなかった(亲告罪であるために告诉告発请求が必要となるため).これとは别に「妻がなまはげに胸を触られた」といった苦情が7件市や観光协会に寄せられたという.
    このような场合は明らかに相手の意に反している性的な行动であるため,祭りのなかであっても许されることではない.仮に相手の女性が信仰上,わいせつな行为をされることを合意の上で参加していれば,祭りということで特别措置が取られるかもしれないが,そのようなケースは现代社会ではほとんどないであろう.グレイゾーンがあるとしても,相手が不快と感じている时点でセクハラと认定される.
    苏民祭について考えてみよう.相手の意に反するかどうかという点について,苏民信仰をもとに祭りに参加している人ならば,そのようなことはまずありえない.黒石寺苏民祭は见る祭りではなく,参加して本人 家族の五谷豊穣,无病息灾を愿う祭りであり,1周间の厳しい精进をしてきた人がセクハラをするということはないだろう.昔,お酒を饮み过ぎて自制がきかなくなった者には亲方众による指导があったようだ(末武 1972).ただ,今回のポスターのように駅构内という公共の场では,様々な考えの人が対象となるため,なかには不快と感じる人もいるだろう.
    総じて,「伝统文化」のもつ意味,それ自体はセクハラではない.「なまはげ」自体も伝说にもとづいた由绪ある伝统文化である.明治以前には,日本古来の祭りと「性」というものは密接に结びついていたのかもしれない.しかし今まで黙认されてきたことは现代の日本ではセクハラという定义にあてはまる.祭りの存続のためには,不适応な伝统文化を削り,宣伝の仕方を局所的にするといった方法が求められているようだ.
    何百年続く伝统文化それ自体はセクシュアルハラスメントとは呼ぶことはできないといえる.
    3.黒石寺苏民祭の意义と変迁
    これまでポスター事件をきっかけに伝统文化がセクシュアルハラスメントにあたるのかどうかを论じてきた.结果,マスコミの报道姿势に问题があったわけだが,ここでは苏民祭の変迁を追いながら,苏民祭の本来的な意义,そしてそれが现在にいたるまでどのように変化してきたのか,また公共の秩序との対立は现在だけのものなのかということに注目していく.そして伝统文化と公共の秩序の対立をより深いところで検证していこう.
    苏民祭の意义について,岩崎は修験道が黒石寺苏民祭の成立にもあずかって力があったという时代背景をもとに次のように语っている.
    「思うに,もっともけがれを嫌う修験道の裸の火祭りで,古代の山岳仏教の影响も受けているが,仪礼化された修験道より以前の古代の素朴な力强さを伝え持っている.古代の伝统を直接に引いている面が多い.お立木,夜ごもり,火に焼かれての死から生への再生,鬼子は神おろしのよりまし依坐の名残かと见られ,东西に分かれての年占,柴灯木登りに含まれる成人仪式,厄灾消除の护摩供の観念など,もろもろの古代の要素を含んでいる修験道の火祭りである.」(岩崎 1989:32)
    もう少し详しくみていこう.资料によれば1200年以上続く黒石寺苏民祭のはじまりは详しくわかっていない.确固たる信仰によって粛々と続いてきた苏民祭ではあるが,时代背景によって変化が见られる.そこには人々の想いが感じられる.末武(1972)によれば仏教が,伝来してくる太古の日本にはツミケガレを祓う自然崇拝の神道があったという.ただ,原始信仰には教理というものがなかった.そこに仏教が伝来し,天台宗密教系の黒石寺はそのなかでも自然崇拝の教えである密教と结びつき神仏混合が行われた.苏民祭には神道の要素が多くふくまれているという.それは鬼子や苏民袋争夺戦が「通过仪礼」や「予祝」という古来の民族行事の一つであることからもわかるという.原始の习俗として母の管辖から分かれて,社会の一员となるためには死と再生の试练を経なければならず,结婚もできなかったという.また司东真雄氏は,行人方という修験僧がこの地の福田事业に贡献していること,安倍氏の时代※2に山伏の姿からイメージされる修験道が入ったことで,修験道が苏民祭の成立に深く関わったとみている.このように密教と修験道と结びついたことで,古来の宗教习俗が新たに演出されたのだという.また,御本尊の薬师如来は,その左手に持つ薬からもわかるように现世利益をあたえるものであり,现世の幸せを求める人々の想いが込められていた.
    このような成立背景をみても当时から见て楽しむ祭りではなく参加することに意味がある祭りであったことがわかる.1000年以上経った现在でもその要素は失われていない.伊藤さんの话では,小さい顷から受験やお祝い事の际には黒石寺に参拝し,七五三さえも黒石寺にお愿いするという姿势から黒石寺が地域の人々の支えになっていることがわかる.そしてその黒石寺の苏民祭という祭りが,そこに住む人々にとって,ただの楽しいイベントではなく,1年に一度の厳正な再生の仪式であることが伝わってくる.そのための厳しい精进である.当日には薬汤という御利益のあるお汤を贳いに水筒やペットボトルを持って参拝する人々も见受けられる.「民が苏える」と书く苏民祭は现在でも黒石地域の人々にとって特别な意味を持っていることがわかる.
    次に苏民祭と公共の秩序の対立の歴史について末武(1971)の资料をもとにみていこう.明治时代になり,文明开化や廃仏毁釈といった思想が入ってくる.穏やかとはほど远く荒々しい祭りであるため,こんな野蛮なものは辞めろ,いう圧力があった.苏民祭のはじまりの裸参りは「夏参り」とも言われるが,夏参りとは下着一点だけをつけることであり,女性の参加者は下着一点だけを着けていた.これは明治の顷に往来を裸で歩くことはまかりならんが,夏参りならば许すというお达しがあったことが由来だという.また,座谈会の行われた昭和46年当时は全裸になることが许されており,现在とは逆に,裸になれという指示があったというから惊きである.ただ,夏祭りの癖がついたのか当时は裸になる人はなかなかいなかったという.
    明治44年には当时の黒石の驻在が50人の警官队を率いて现れ,乱闘騒ぎになったという.明治5年の神奈川県庁の资料にあるように,上からの警告で野蛮な祭りを辞めさせるべく,警官队の人々はサーベルを持ち军队のように拝殿にならんだ.ただ,サーベルに対して裸一贯の人々はおそれることなく追い返したという.警官队はサーベルが折れたり服が破れたり泣きべそをかきながら帰って行ったという.そんなことが1,2年あって特别に无礼讲が认められたのだという.
    このように中央との対立は明治期から见受けられる.その后,末武(1972)の座谈会の记录では,昭和46年に暴力団との騒动で存続の危机に陥ったという.暴力団が精进をしている人々の前で何の许可もなく屋台をはじめたのだ.暴力団との争いは何度か起きているらしくその一つ前の年は苏民袋を一人占めするためにラグビーの玉のようにかっさらったという.昭和30年ごろにも问题が起きていたようだが,话をつけて大人しくなっていたという.これに対して,昔はイノウ※3という人の力でそういうことはなかったし,古老の方の若い血気盛りの顷には打ちのめしていたというが,新宪法によってそのような事が出来ずにただ我慢するだけになったようだ.精进でいきり立つ苏民祭の男众と乱闘になるのは当然のことに思える.そして,その当时不祥事を避けるため警察から次の3点の条件が出されたとある.祭りは午后10时までに终了すること,手木は绝対に持たせない,苏民祭に入る者の资格审査をするようにというものだった.3つ目は现在実际に行われているものの,はじめの2点は无茶苦茶な条件ではあった.だが,警察でも祭りを総代にやってもらいたいと応援していたため,结果的に黙认というかたちで収まったようだ.
    このことから伝统文化と公共の秩序の対立は现代だけの问题ではなく,明治や昭和になっても対立が起きていたことがわかる.ではどうようにこの危机を乗り越えたのか.丁度この时期(昭和46年顷)から苏民祭の存続を応援する苏民祭保存协力会といった组织ができた.现在は顾问を务めている菊池さんは宣伝のトラックで沿岸まで回っていたという.また苏民祭について当时,末武氏も苏民祭の歴史的価値についてまとめた著书を出し普及活动を行っている.価値が见直され廃れかかっていた苏民祭は息を吹き返した.警察も黙认というかたちで苏民祭の存続を応援していた.
    昭和の时期の苏民祭は,お金がないこと,住职が不在になったこと,若い人が精进をしなくなったなどという问题を抱えていたという.伊藤さんの话では当时お寺が生活保护を受けると噂されるほどお金がなくなっていて,门前檀家が协力していた.昭和46年の座谈会では,黒石寺が昔は财产のある寺で,信仰者による寄付や赛銭がなくても自力でやっていけたが,その当时,信仰心がなくなり土地が解放され,残った财产は后を継いだ人が山を売りながらやっていったと古老の方は语っている.また,苏民祭保存协力会が発足してもお金がなく存続が危ぶまれていた.市が协力し存続は守られたが,「お金は欲しいが见せるためにやるわけではない」という意见もあったようだ.また,现住职藤波洋香さんの前の住职は彼女の祖父である藤波玄雄さんであった.その方が亡くなり洋香さんに引き継がれるまでの2年间は住职がいなかった.それでも一般の人々には知られずに祭りは门前檀家が静かに行っていたのだという.また,末武さんの「昭和46年」には古老の方が明治や戦时中の苏民祭と比べ,若者の精进の姿势について叹く様子が见受けられる.生活环境の违いから若者の考え方が违ってきたのであろう.
    困难な状况であっても苏民祭は信仰を持った人々や価値を知る人々の普及活动によって问题を乗り越え受け継がれてきた.公共の秩序と対立していたのは近年だけの问题ではなかったが,セクハラとして大々的に扱われたのには,现代社会にしか见られない倾向,または苏民祭の変化というものがみられるかもしれない.それについては次章で详しく述べていく.
    第3章 公共の秩序と伝统文化の対立の捉え方
    さて,これまで公共の秩序と伝统文化の対立の直接の原因となったポスター騒动の详细と,また秋田県男鹿市の「なまはげ」との比较から伝统文化とセクシュアルハラスメントの関系について考察してきた.结果としてマスコミの过激な报道が原因によるものであることがわかったが,本章では「公共の秩序」と「伝统文化」を捉えなおし,なぜ対立が起きたのか,どのように再统合しているのかをより深く考察していく.
    1.公共の秩序の在り方
    今回の騒动では,セクシュアルハラスメントという概念が问题となった.セクシュアルハラスメントは「相手方の意に反する不快な性的言动」と理解されているように,公共の秩序とは,人々を不快にさせない社会のルールであるといえる.セクシュアルハラスメントという概念は前出のように外来のもので比较的新しい言叶であり,男女平等が唱えられるようになってはじめて,それまでマイノリティであった女性の権利を守る法律として社会のルールとして现実のものとなった.しかし,昔から女性の男性に対する不満や抵抗というものはあったはずである.では,なぜそれ以前は问题にならなかったのだろうか.男女平等であるべきだという考えは存在しなかったのだろうか.それは,セクシュアルハラスメントという概念がなく表现することができなかったからである.伦理的に当たり前の概念であっても,表现する言叶や法律がなければ社会のルールとして认められない.江戸时代や戦时中をみてもわかるように,昔の日本でも理不尽な理念や法律はたくさんあっても,それが公共の秩序として机能していた.时代背景が影响していることがわかる.また,今回のようにセクシュアルハラスメントという言叶を用いることで,否応なしに苏民祭という価値あるものにマイナスのイメージを植え付けてしまうこともある.裸だけを见ればセクシュアルハラスメントと决めつけ,それを言叶にしてしまえば,地域のマイノリティな祭りの存在を否定してしまいかねない.セクシュアルハラスメントという概念が生まれる前も后も苏民祭は存在しており,厄除けを愿う确かな信仰によって行われてきた.戦时中には下着姿の女性が祈愿しにくることもあったが,そこには性的な不快感はなく,公共の秩序が守られていた.场合によって公共の秩序はマイノリティの存在を否定しうるものであり,その线引きは简単に决められるものではない.
    総じて公共の秩序とは时代ごとの影响を受けるものである.しかし,そのなかで普遍的な価値観を常に见据えていくことが必要であろう.
    2.伝统文化の在り方
    次に伝统文化の在り方について考えてみよう.私は伝统文化とは2面性を持ったものであると考える.以下で详しくみていこう.
    まず伝统文化と闻くと茶道 华道 舞踊 陶芸 祭りといったものが思い浮かび,いずれも百年以上の歴史があるものである.そこには日本人の「和」の素晴らしさや歴史の奥深さを感じることができる.黒石寺苏民祭も千年以上の歴史があり,太古の荒々しさを今に伝える贵重な文化财と言えるだろう.もちろん,伝统文化にはそれを受け継ぐ人々がいる.技术や形式,そして当时の人々の想いをそのままのかたちで受け継ぐことは容易ではないはずだ.时にはそれが困难になることがあり,変更を余仪なくされる场合がある.これが伝统文化の持つ一つの特徴である.
    现代に生きる人々と昔の人々とでは生活形式や信仰が违うため,存続が困难になることもある.祭りに関していえば,昔は行事を旧暦に合わせて行っていたが,现在はほとんどの祭りが新暦で行っている.人々が月の満ち欠けではなく,都会の人间に合わせて暮らしているため旧暦で行うことは不可能になったのだ.また,田舎では人手不足になりローカルな伝统文化の担い手がいなくなるという事态もおきている.このような伝统文化存続の危机に际して,人々は日にちを集客のあるゴールデンウイークのような祝日に移すといった対策をとっている.また,厳正な仪式的要素を持つ祭りでも规制を缓和し,イベント的な要素を持った観光目的の祭りへと変更しているところもある.このように伝统文化とは时代の影响を受けて変化するものであるといえるだろう.
    一方,変化を余仪なくされる伝统文化ではあるが,形だけを受け継ぐのでは灭びてしまうという一面もある.藤波洋香住职が「祭りはフェスティバルではなく,本来は神仏を祭ることである」と话すように,信仰心をなくしては受け継ぐ意味がなくなってしまうであろう.
    伝统文化とは,存続のため时代によって変化を求められながらも,譲れない部分が守られなければ灭びゆくという,相反した2面性を持つものであると考える.
    3.现场での新たな公共秩序の模索と构筑
    苏民祭の変迁で过去にも伝统文化と公共の秩序の対立がおきていたことがわかったが,当时の人々の强固な信仰心によって乗り越えてきたことがわかった.しかし当时と比べて现代社会ではより复雑な対立関系ができていると考える.それは生活环境の変化による祭りに対しての捉え方の変化,そして祭り自体が明治や昭和の时期に比べて弱くなっているからであろう.以下で详しく述べていく.
    现代社会では当时と比べ生活体系が変わってきた.第3次产业が発达し,昔のように农业をする人々が少なくなった.昔は门前檀徒がお寺の小作人として农业に従事していたのが,现在は100%サラリーマンであることからもわかる.また,医疗技术が発达し病気をする人々も昔に比べ大幅に减った.昔のように生活を支える农业の豊作を愿い激しい争夺戦を行う姿势や,家族や大切な人の无病息灾を愿う気持ちは现在より切実なものではないだろうか.现在の争夺戦で道路に出る际に集団が道路にでないようにホースで诱导するといった姿は当时からは考えられないであろう.もちろん现在でも信仰心は失われていないし,精进期间中によそものは家に入れないといった厳正な掟もある.また,公立病院の委员长が苏民祭に参加したことで余命が10年以上も伸び今では热心な信者になっているという惊くべき话もある.しかし,昔と比べ苏民祭が维持しづらくなったことは事実である.
    また,社会全体として祭りというものに対して考え方が変化しているように感じる.私自身祭りというものは华やかでたくさんの人が集まる楽しいものというイメージがあった.祭りと闻いて楽しいイベントとイメージするのは私だけではないであろう.
    奥州市には他に日高火防祭という市を代表する大きなお祭りがある.起源は江戸时代に旧藩时代に留守家17代の水沢城主宗景公が人智の不测不虑の罗灾を神仏の加护によって未然に防止しようとし,日高妙见社の日は「火」に瑞山(みずやま)神社の瑞は「水」に通ずるとして両社に祈愿し始められたことであるという(奥州市HPより抜粋).この祭りは300年以上続いており,古くからのしきたりによって行われる.なお,この祭りの醍醐味は町组ごとに饰り立てられたはやし屋台が古趣あふれる音楽にあわせて街を练り歩き,夜には各町组の屋台がぼんぼりのなかで竞って华丽なおはやしを披露するところにある.この祭りは谁もが集いその华やかさに惊き楽しめる祭りであり,参加しなくても见て楽しめる祭りである.県外からもたくさんの人々が访れる.
    このように华丽な祭りの要素が注目され,それが一般化するようになった.しかし,祭りとは本来神仏を祭り,ケガレを祓うものであり,人间の都合で行われるものではない.また,生活水准の上升から质素な日々の暮らしのお祝いという祭りの「ハレ」の要素が现代社会では常习化してきたことも祭りの「イベント化」を助长しているだろう.人々にとって,华やかな雰囲気に加えたくさんの屋台があり,たくさんの人々で赈わう祭りが一般化した今,ストイックな祭りはマイノリティなものとして扱われてしまうだろう.特に苏民祭という祭りは信仰心がなければ理解されがたい.结果,裸という一部分だけをみてセクハラと扱われ,苏民祭の持つ深い精神世界までは理解されなかった.苏民祭とは,祭りの华やかさという表面だけをとらえるのではなく,その祭りの意义や背景に注目するということを改めて考えさせる祭りである.
    以上のように,时代背景の影响を受け苏民祭は伝统文化と公共の秩序の対立を引き起こした.だが苏民祭は人々の努力によって现在も存続されていて,现在の社会に生き続けるための新たな公共の秩序が生まれたといえよう.それは「むやみに裸をださないし,出させない」というルールであり,时代の変化に适応した结果である.他にも现代社会に合わせていろいろな変更が见られる.先に述べたように伝统文化とは変わりゆくものである.ただ,形式だけを存続しても伝统文化は廃れてしまう.苏民祭の场合はただ形式だけを受け継いではいない.多少の変更は见られても,古代からの苏民信仰という思想が受け継がれているのだ.そしてその信仰心という普遍的な価値観が新しい公共の秩序をつくっているといえるだろう.
    これからも时代の変化によって祭りは変化していくだろう.例えば少子化によって鬼子にのぼる子どもが少なくなっている.黒石小学校の一学年は10人ほどしかいない.そのなかで鬼子になる数え7歳の男の子はなかなかいないだろう.现在は年の幅を広げておぶえる子どもならおぶり,亲戚の子どもを1周间拉致监禁(言い方は悪いがご住职の言叶通りに表现)して爷さん婆さんが预かるという妥协策をとっていて,毎年村に子供がいなくてもどこからか连れてきているのだという.ただ,それもいつまでも続けられるとは限らない.给食を食べずに弁当を持たなければいけないのは小さな子どもにとっては楽ではないし,その亲や家族全体が精进しなければいけない.対策として「鬼子の女の子化」や「精进料理の缓和」などが行われる可能性もあるという.
    しかし信仰心は変わることなく受け継がれ,そのたびに人々の工夫や努力によって妥协策がとられるだろう.そして黒石地域に信仰心にもとづいた新たな公共の秩序がうまれると考えるのである.
    このように,マイノリティな文化で,远くから见たら対立しているようにみえることでも,ミクロな视点で现场をみれば新たな発见をすることができるのである.
    结语
    ポスター掲载拒否から本番までのマスコミによるセクハラ騒动をきっかけに,1000年以上の歴史がある「奇祭」黒石寺苏民祭について,伝统文化Vs公共の秩序という构図に着目し论を进めてきた.なぜ対立が起きたのか,それは现代社会に生きる日本人の祭りに対する考え方の変化,そしてさらに黒石寺苏民祭という信仰心が强く求められる参加型の祭りという特质がメディアや一般の人々に理解されなかったことが原因であった.苏民祭は「民が苏える」と书くように,通过仪礼や黒石地域の统合机能も持ち合わせている.昭和46年には座谈会が行われ,その価値を确认し,后世に伝えようと立ち上がった人たちがいた.现在では黒石寺苏民祭保存协力会という组织,そして市全体でサポートするようになっている.私自身も调査として実际に参加したわけだが,苏民祭という太古から続く祭りの迫力に圧倒させられた.形だけではなく,祭りに込められた想いも受け継がれていくことを切に愿う.
    最后に,メディアを通して祭りの存在を知る私たちやメディアの在り方について考察して结语としたい.今回の騒动のように现地に赴き祭りに参加したものでしかわからないもの,たとえば宗教世界といったものがあるだろう.今回はメディアが原因で伝统文化が壊されかけたが,幸运にも参加した报道阵が事実を一般の人々に伝えたために苏民祭という祭りが広く理解されるようになった.もし报道阵が祭りの表面だけを面白おかしく取り上げていたら祭りの存続ができなかったかもしれない.メディアというものは伝え方次第で受け手のイメージが大きく変わってしまうことがある.苏民祭が数年ほど前からインターネットで映像として流れるようになった.しかし,それは裸にだけ兴味がある人が撮ったものであり,彼らは厳しい1周间の精进や苏民信仰にはまったく兴味を持っていないという.ただ,このことが原因で公序良俗に反すると警察が関与してくるようになった.太古から続く祭りは现在の私たちには荒々しく异文化のように感じることもある.しかし,その一部だけを见ていては文化を理解することはできない.では,我々はどのような态度で文化を理解していけばいいのだろうか.この问いに対して,「カルチュラル スタディーズ」について记した本桥を参考にしてみよう.そこでは文化に対して我々が取るべき态度を记している.その定义は「出来事への応答责任としての理论化の试み」であり,つまりは出来事に対して自ら努力して知识を得て,出来事を共感しようとする姿势のことである.なぜニュースの段阶,バラエティーの段阶で人々は祭りの意义まで知ろうとしなかったのか.また,なぜメディアは伝统文化をあのような形で报道することを选んだのか.报道阵が报酬のために贵重な文化を危机においやったことは事実であり,慎重な态度が必要であったはずだ.そして,メディアを媒介として情报を得る私たちは,直接祭りに参加することはできなくても支えている人々の努力や辛さ,その背景にある想いを共感しようとすることはできる.その人たちの立场に立つこと,本质を理解しようと努めることが求められているのである.そうすれば少なくとも,ポスター事件のように,本质を知ろうともしないで面白おかしく取り上げるという事态はなくなるはずだ.メディアを见るときは,谁がどのような立场で発信しているのか,その部分をおろそかにしないこと.その姿势が私たちに必要であると考える.
    他にも「女人禁制」※4の山の事例や「カニバリズム」,「演出侵害」※4の话にも通じる点があるように思う.また,演出VS公共の秩序ということで思い当たるのは,2008年の红白歌合戦の某アーティストのボディースーツ事件である.演出の都合で裸が描かれたボディースーツを着たことについて,苦情の电话が杀到したというものだ.以上のような事例を考える上でも,どちらが正しいかを决めつけるのではなく,现场に目を向け,そこで新しく公共の秩序が构筑されるという可能性を探ること.そういった姿势が问题の解决につながっていくことを期待する.
    おわりに
    本论文が完成したのは,黒石寺住职の藤波洋香住职をはじめ准备段阶から快く参加させていただいた苏民祭保存协力会の方々,突然のインタビューにも亲切に话を闻かせてくれた伊藤さん,騒动の対応について细かく说明してくれた市役所の小野さん,调査に协力してくれた全ての方々と,そして最后まで指导してくれた先生のおかげである.心からお礼申し上げる.本当にありがとうございました.
    (平成20年12月8日,平成21年1月9,12,18,21日,2月1,2日调査)
    [注]
    ※1 和铜6年に诸国の风土,伝说などを记すことが命じられ,风土记の中では最も古い时代のもの.
    ※2 11世纪ごろ胆沢,江刺,和贺,稗贯,斯波,岩手のいわゆる奥六郡を支配していた地方豪族.胆沢城筑城のあと降伏した虾夷たちは浮囚と呼ばれていて,安倍氏は浮囚长であった(「岩手の苏民祭」より一部抜粋).
    ※3 お寺には别に三纲といって别当(住职),寺主(てらす),维邦(いのう)の3役がある.寺主は堂宇の造営管理をつかさどり,维邦は众僧に雑事を指示する役目で,共に门前檀徒の中から出る.
    ※4 「女人禁制」の山の话.修験道など信仰の理由で女性が立ち入れない山があり,この伝统文化は现在も続いているが,最近は女性の反対の声もあり対立が起きているという.これはフェミニズムという现在の公共の秩序と,昔の日本の男性社会における公共の秩序の违いから起きているといえるだろう.
    ※4 歌舞伎役者にスリッパを履かせるといった话もあったという.
    参考文献
    本桥哲也,2002,「カルチュラル スタディーズへの招待」,大修馆书店 37 - 59
    水谷英夫,2001,「セクシュアル ハラスメントの実态と法理」,信山社 ⅰ,188 – 211,309 – 340,341 - 349
    末武保政,1971,「黒石寺苏民祭昭和46年」,水沢史谈会 2‐75
    末武保政,1972,「黒石寺苏民祭覚书」,水沢印刷 2‐47
    末武保政,1976,「黒石寺苏民祭」,文化総合出版
    岩崎敏夫,1989,「黒石寺苏民祭」东北学院大学东北文化研究所纪要 第21号 19 – 33
    岩手県教育委员会,2003,「岩手の苏民祭」岩手県文化财爱护协力会 1 – 2,47 - 61
    黒石寺住职藤波洋香,「黒石寺苏民祭と岩手の苏民信仰」
    (社)水沢観光协会,2000,「岩手水沢 黒石寺苏民祭 guidance」,仙台市高桥印刷(株) 4 - 32
    光阳美术,2006,「みちのくの古刹 天台宗妙见山黒石寺」光阳美术 26 - 32
    河北新报
    参考ホームページ
    妙见山黒石寺公式ホームページ(http://kokusekiji.e-tera.jp/)
    产経ニュース
    (http://sankei.jp.msn.com/photos/life/trend/080108/trd0801082054012-p1.htm)
    奥州市ホームページ 日高火防祭
    (http://www.city.oshu.iwate.jp/www/contents/1206757054265/html/common/49936a63005.htm)
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